2012年11月15日木曜日

お父さんはすずやさん


わたしの実家は商売をしてます。

小学校の時から「お父さんのお仕事は?」というのに「すずやさんです。」と、何度となく答える機会はあったけれど最初はみんな「ん?」というのが普通の反応。
「鈴の問屋さんをしています。」ということなのだけどね。⇒鈴万商店

なので、わたしは小さい頃から鈴をはじめとして、いろんなキーホルダー、寺社仏閣のおみやげの品々 、お祭り用品、ペット商品なんかを見て育ってきました。
家族で旅行に行ってもあまりに当たり前にあったキーホルダーとかは買わなかったな~。今となれば、当時のお父さんのように鈴を熱心に見たりすることもあるけれど。

実家の家業というのは、わたしにとってはとても当たり前の存在であったけれど多くの人にとってはとても珍しい商売であると今になるとよくわかります。


戦前は東京の芝で鉄の問屋を営んでましたが、戦争による疎開とおじいちゃんがスマトラへ出兵したこと、また材料が軍事に充てられたことにより戦後は鉄の問屋を再開することはありませんでした。
戦後日本へ戻ってきたおじいちゃんは、千葉県市川市の自宅から毎日自転車をこいで東京の両国のお店まで通い、鈴の問屋を営むことを始めました。
現在だったら自転車ブームもあり、長距離の自転車旅も楽しみとなるところだろうけど、家族を支えるために毎日通っていたことを思うと頭が下がります。
なぜ鈴の問屋を始めたかと言えば、おばあちゃんの実家が自転車のサドルなんかを製造するプレス工場を営んでいたということと、戦前の鉄問屋のつながりがあったからのようです。

おじいちゃんは自らの戦争体験というのを語ったことはなかったですが、そこには語ることのできない経験をしてしまったからなのではないかと今は想像します。それでも、おじいちゃんが戦地から家族に送ったハガキを読むと、ただひたすら家族の事を想う言葉と現地での気丈な様子を綴る言葉があります。
おじいちゃんが苦労をして日本に帰ってきたことによって、今のお父さんもわたしもあるのだとハガキを見るたびに思います。(そして、マレーシアに住むわたしとしては少し思う所もある)


さてさて、おじいちゃんの開いた商売も日本の戦後の経済の変遷に大きく左右されながら、現在のわたしのお父さんの代まで続いてきています。
特に、お父さんの代になってからは更に一層とお父さんの努力によって、わたしと妹と弟を今日まで育て上げてくれました。
これも子供の頃は全くわかりませんでしたが、鈴ひとつが何銭という世界で我々3人を大学に送ってくれました。それぞれ習い事もたくさんさせてもらったし、今、わたしがそれだけのことを自分ができるのか?と言えば、ちょっと自信がないほどです。
特に各自の興味のあることについて「だめ!」と言ったことがないです。子供の頃の習い事というのは受動的な事もおおいけれど、振り返ってみるとひとつも無駄な事などないんですね。思春期の頃には忘れてしまっていた事なんかもあるんですが、後々、何かとつながっていると気が付くことも多いです。
お父さんとお母さんの最強の組み合わせで、今のわたし、妹、弟があります。 
ありがとう!!


ってわけで、今日はちょっと鈴を紹介したいと思います!

鈴と言っても、ほんとにいろんな形がある。
そこにサイズや塗装の違いによって何通りにも違うものができてくるわけです。
最近でこそ日本国内で流通する鈴の多くは中国で製造されていますが、お父さんのところは日本のプレス屋さんと塗装屋さんで製造されています。

そして、今や機械で製造されているものがほとんどですが、ちょっと前までは鈴の製造も国内でロウ付けで行われていたんだそうです。ロウ付けの鈴と機械でかしめて作られている鈴の音色を比べると違います。コロコロとてもいい音。音色という言葉がぴったり。
材料の厚みが違うというのが大きな理由なんじゃないかと。今はもうそういう職人さんがいません。
この他にもたくさんの種類の鈴があります。
神社でガラガラと鳴らす鈴は受注生産で、これは今でも職人さんの手作りです。

大福鈴共釻(だいふくすずともかん)ニッケルメッキ、真鍮メッキ


招福鈴(しょうふくすず) ちぢみメッキ











招福鈴(しょうふくすず) 古美メッキ


宝来鈴(ほうらいすず) ニッケルメッキ
招福鈴(しょうふくすず) 真空メッキ


宝来鈴(ほうらいすず) UV印刷
宝来鈴(ほうらいすず) パット印刷

宝来鈴(ほうらいすず) つや消し塗装



切釻鈴(きりかんすず) ニッケルメッキ










しずく鈴(しずくすず) 真空メッキ
平鈴(ひらすず) 真空メッキ








ベル 代用金メッキ
カウベル 銅ブロンズメッキ



















































































鈴の問屋ですけど、最近は少量のお客さんもあるそうです。
例えば、ある地方の学校から「熊除け用」ということで注文があったり(昔は熊除けのベルを山用品のお店に卸していた)、踊りのためのコスチュームを制作している人から注文があったり、ブライダルの会社から注文があったりとか。

簡単な商売であるわけではないけど、現在も寺社仏閣が多く存在する日本と鈴は切っても切れない関係です。
また鈴について思いついたことがあったら。。。





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2012年11月2日金曜日

絵本


今日はクアラルンプール児童図書フェスティバルの講演の一つを聴きに行きました。
最近、2冊の本を出版したお友達が誘ってくれたのです。Yちゃん、今日はどうもありがとう!


被災地支援プログラム“明日の本プロジェクト”を行っている、JBBY(社団法人日本国際児童図書評議会)の村山隆雄会長
http://www.jbby.org/ae/?lang=ja
http://www.ibby.org/

被災地の子供たちに絵本を届けるプロジェクト“3.11絵本プロジェクトいわて”を立ち上げられた末盛千枝子さん
http://www.ehonproject.org/iwate/index.html 

生後6か月からの子供たちに本を読む事を日常に取り入れてもらおうと活動しているブックスタート タイランドの代表の方
http://www.bookstart.org.uk/about-us/bookstart-around-the-world/

この3人の方の講演でした。


恥ずかしながら、わたしはこのような活動については今日まで知りませんでした。
講演の中でも紹介されていましたが、我々日本人は小さい頃に親に絵本を読んでもらうことがごく当たり前の事であったり、その後も当たり前のように本と共に日常を過ごしている国民なようです。


タイのスピーカーの話した内容は印象的でした。以下。

「日本を初めて訪れた時、電車の中でもどこでも多くの人が 本を読んでいることに驚きました。」
「当時(40年ほど前)、タイでは各地方に本屋さんは1軒ぐらいある程度で、その本屋さんも半分は文房具屋さんという店舗形態でした。」
「また、数年前までは、タイの人々の年間に読む本の平均は何と!1冊にも満たず、わずか10行というものだったのです(笑)。」
「しかし、近年ではその平均は年間2冊というところまでなりました。」

このNGO団体の活動によって、単純に本を読むという習慣が広がるだけではなくて、それは家族の在り方を変化させたり、子供たちの成長に大きな影響を与えているのだそうです。
彼女の話によれば、タイでは男性が子供を育てることに関わりが薄いそうで、お父さんが子供に絵本を読んであげることで、そのお父さんたちの家庭での子供への関わり方が変化するのだそうです。お父さんも毎日、子供に絵本を読んでとお願いされるのがとっても嬉しそうでした。
子供のために読んでいるはずだった絵本が、お父さんにも大きなものをもたらしています。 



JBBYの村山会長のお話は、被災地支援プログラムについての報告でした。
現在は以下のような活動をしています。

・ 図書館バスで被災地を訪問し、子どもたちに本を貸したり贈ったりする。
・ 紙芝居、ストーリー・テリング、読み聞かせ、人形芝居などを行う。
・ 子どもの本の作家・画家が子どもたちに話をしたり、一緒に絵を描いたりする時間をつくる。
・ 被災地以外でも、原画展や講演会を行って寄付金を集める。

今回は日本の被災地での活動のお話でしたが、世界には原因(理由)の違いはあるとしても、多くの地域に厳しい毎日を送っている 子供たちがいること。そのような状況にある子供たちも、同じように本を通して支えていくことが大切であるという言葉がありました。



末盛千枝子さんのお話も印象的でした。

最初に、作;谷川俊太郎 絵;長新太の「わたし」という絵本の紹介がありました。
「お兄ちゃんからみると、妹。犬からみたら、人間。」というように、「わたし」という女の子はひとりなのにいろんな呼び方があることを描いています。
自分以外の誰かや何かと関わることで、この世界での自分の存在のちょっとした変化がつづられているのだと思います。

日本で被災した多くの子供たち(子供たちだけではないですが)は、多くのものを失いました。それは、人であったかもしれないし、ものであったかもしれないし、言葉では表現できないものであったかもしれません。
でも、そういったひとつひとつ(つながりや絆と呼ばれているのかな?)が、その子供たちの存在をかたちづくっていた(規定していたというか)のだと思います。それの多くを失ったことによって、自分の存在がぐらぐらして不安になっているのではないかと思います。
大人であれば、良くも悪くも、多少は「わたし」というものを「自分」で決めている部分があるのかと思うので、子供たちよりも幾分ぐらぐらが少なかったり、または、「自分」以外の世界の部分に責任を持つ現実に対応しなくてはならない方が大きいのかもしれません。

わたしは20歳になった時に漠然と「この先、お父さんとお母さんの娘(子供)という立場でいる時間より、そうじゃない立場にいる時間のほうが長いんだなぁ。」と思いました。
それは、働く場所にいる時の自分は「上司の娘」のわけはないし、結婚すれば「~と結婚したわたし」「嫁」「義妹」という立場が時と場合に応じてあるわけです。
「わたし」であることというのはそういった自分を取り巻く環境によって、どこまでも変化していくようです。
まぁ、それでも、そういうものとは無縁の「自分だけのわたし」というのを忘れたくはない気もします。


と、少し話はそれました。。。


ある男の子は届けられた本の中からやっと自分が大好きだった本を見つけたそうです。
どんなに歳が小さくても、それが彼にとって「ぼく」というものをかたちづくってきた1ピースだったということなのかもしれません。大きくなった頃にたとえ忘れてしまっても。。。




最後に質問をしてみました。
「現在、何が最も必要ですか?」
「日本を離れて暮らしている人間にできることは何ですか?」
 
答えは
「寄付、お金」
でした。
この言葉がためらいなく出てくるということは、この活動にしっかりと責任と決意があるということなのではないかと感じました。

そして、
「10年先、またその先の活動というのを考え、現在の活動を実行していく。」
「被災地や子供たちが忘れさられないこと。その為に大人たちが活動していく。」

どんな事も、始めることより続けることが簡単ではない、ですよね?



子どもにとって絵本の大切さは今さら強調するようなことではないのかもしれないです。
震災後に絵本の力が大人たちにも見直されたと聞くけれど、今日の講演で紹介された「わたし」という絵本ひとつとっても、わたし自身も力を受けた気がします。

次回の日本帰国でこの絵本を買おう。






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