2011年3月7日月曜日

15才のわたし

今はマレーシアに住んでいるわたし。


最初にマレーシアに来たのは15才の時。
ホームステイプログラムに応募して短い10日間ほどを過ごした。


中学生の頃は地理や歴史が好きで、プログラムの行先にはイギリス、アメリカ、中国なんかがあったけど、授業で習ったプランテーションの事や東南アジアのイメージが頭に残っていてマレーシアを選んだんだっけなぁ。

マレーシア行の飛行機の中で、「ラササヤン」の歌を覚えたこととか、「ルックイースト政策」を覚えたこととか、今思うと不思議だ。
なんでその歌だったのかのわからないけど今も覚えている。マレーシアで聞いたことはないけど。「ルックイースト政策」もその頃は単純に、「見習おう」という意識としてしか考えていなかったけど、そこには多くの政治や各国企業の競争が含まれていたんだろうと、今になって想像するところがある。そして、まさにこれからその東側の国々が抱えてきた問題をも見つめながら、マレーシアも成長していくのだろうな。もちろん、それらの国々が抱える問題とは異なるレベルの問題をマレーシア自身が持っているのかもしれないけれど。。。


短い滞在期間の中で、現地の学生との交流会もあったし、メインとなるホームステイもあった。

15才のわたしが一番驚いたことは、学生のほとんどが英語で話しかけてきたこと。日本から参加していたわたし達は10才から15才で、中学生のわたし達が小学生に協力して交流していくものだったんだけど、今思うとそんな力があったのかどうか疑問。
ホームステイも小学生と中学生が同じ家に滞在した。わたしはチャイニーズ系の家で、床が大理石なこととかメイドさんがいたこととかすごい広い家とかに驚いたもの(あと、おとうさんが頻繁にゲップすること)。そこのお家には女の子がいたけど、彼女のお兄さんは海外に留学していたから、それもまたずいぶんお金持ちなんだと思ったりした。「日本って先進国とか言うけど、ほんとにそうなの?」って思った。飲茶に行った時には、鶏の足が出てきてびっくり!
中には伝統的なマレー系の家に滞在した子もいて、お風呂が屋外にあったという子もいた。それを聞いてもびっくりしたけどね。
しばらく、その女の子と手紙のやり取りもしたけど、彼女もきっと海外にいったのだろうなぁ。最近、その手紙を見て自分がクランというところにいたということが改めてわかった。ほんと今更ね。


クアラルンプールではフェデラルホテルというところに泊まっていたみたいで、それがまさかあんな中心街だとは思ってもいなかった。お風呂に入ろうとしたら茶色い水がザーザー出てきて困ったし、シャンプーや石けんも異国の雰囲気ばっちりのにおいだった。ホテルの中にある売店でピアスの穴もないのにピューターのピアスを買ったんだったな。「Please show me this one.」とか言ってさ。今も持っている。



意外に覚えていることは少ない。

鮮烈な印象はクエ。食べた瞬間に「わ~ん」と言いたくなるものだった。それまで食べたことのないカラフルで妙なもの。
今は食べられる。

その当時はモノレールもLRTもなかったんだと思う。バスでの移動の中で、道路を覆う大きな木の緑とブーゲンビリアの木がつくる木陰と強い太陽の光も印象的。きれいだったな。大使館の人にも会ったはず、「すごく日焼けしてマレーシア人に間違われるほどです」という言葉も覚えている。


結婚して住み始めたマレーシアは15才のわたしが見たものとは大きく違っているのだと思う(記憶は曖昧だけれど)。マレーシアもわたしの両親が見てきた日本の変化のように大きく変わっていくのかもしれない。
うまくは言えないけれど、ここで生活する者としての楽しみと少しの不安、そしてどうしたって国民ではない自分の他人事(よく言えば客観的?)の感情がある気がする。




今度日本に帰ったらその頃の旅のしおりをもう一度見てみよう。
彼女にも手紙書いてみようかな。






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2 件のコメント:

  1. マレーシアでホームステイしてたなんて、初耳だったよ!
    そのときから、合ってたんだね!

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  2. まみっくさま

    意外と知られていない。その後のマレーシアとのかかわりは結婚するまでないというね。

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